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参考資料「男系継承によってしか万世一系の皇統は護れない!」  ( 2005/11/22 )

 小泉総理の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」が発足し、「女性天皇を容認するか否か」を最大の論点にしています。総理・政府は有識者会議の答申を基に来年春の国会に皇室典範を改変する予定とされています。
 マスコミの論説や有識者会議の議論の方向として「男女に関わりなく最初の子が皇位を継承すべきだ」とか「女性皇族の宮家を新設しなければならない」などという言説がひとり歩きしています。
 しかし、有識者会議本来の目的は「安定的皇位継承」の実現にあるはずで、「皇位継承とは何か」の論議なしに女性天皇の論議を先行させることは、あまりにも無節操であるばかりでなく、「皇統」の本質を見誤れば真の「皇位継承」を破壊し、見せかけの「皇位継承」に陥る危険性があります。有識者会議は、マスコミに迎合するかのように「国民の世論調査の結果も考慮し」「国民の望む平均的結論になるであろう」と、結論の内容を示唆する発言までしています。
 国家の歴史・伝統の根幹にかかわることを論議するに「私的」諮問機関をもって行い、皇室伝統について先人たちより受け継がれてきた意思を無視するが如き結論を拙速に進めることは大きな問題があると思わざるを得ません。
 女性天皇是非論の前に皇統の「男系継承」「万世一系」とは何か、先人たちがなぜ護り抜いてきたのかいう観点から検証し、かつての「女性天皇」の果たされてきた役割と「女系」との違いを明確にしておかねばならないと思います。
 この論点については増山佳延氏の論文「男系継承によってしか万世一系の皇統は護れない!」が非常に明確で、判りやすくまとめられていると思われますので増山氏のご諒解を得て、その骨子をご紹介させていただき、参考資料とさせていただきます。

【男系継承によってしか万世一系の皇統は護れない!】

-目次-
一、万世一系の意味
二、染色体と遺伝子の違い
三、万世一系が続いた理由は何か −傍系宮家が繋いだ皇統―
四、Y染色体から見た皇統の連続性について
女性天皇の前後はどうなっていたか
(1)推古天皇から始まる飛鳥維新
(日) 第33代 推古天皇(女帝)
(月) 第35・37代 皇極・斉明天皇(女帝)
(火) 第41代 持統天皇(女帝)
第43代 元明天皇(女帝)
第44代 元正天皇(女帝)
(水) 第46‐48代 孝謙・称徳天皇(女帝)
(木) 第109代 明正天皇(女帝)
(金) 第117代 後桜町天皇(女帝)
(2)飛鳥から奈良時代にかけての女性天皇の偉大さ
五、大嘗祭と皇位継承
(1)大嘗祭とは何か
(2)式年遷宮が暗示するもの
(3)日本人の死生観
六、おわりに



一.万世一系の意味
 日本史上、女性天皇は十代・八方(内二方は重祚)いらっしゃるが、その内、八代・六方が飛鳥時代から奈良時代にかけてであり、残り二方は江戸時代に即位された女性天皇である。
 女性天皇の即位は、今日でいう「男女同権」という次元とはまったく違う観点から決定したものであった。
 飛鳥時代から奈良朝廷にかけては、平塚らいてふが「元始女性は太陽であった」と言うように、女性は無から有を生み出す(子供を産む)存在であるが故に、神に近い存在として神聖視されていたのである。白村江の戦いでは高貴な女性は必ず船に乗った。そうしないと神に守ってもうえないと思ったからである。
 従って当時は徹底した「女尊男卑」社会であった。
皇族も一般庶民と同じように子供は母方の実家で育てられた。聖徳太子も宮中ではなく、蘇我氏の屋敷で年少時代を送っている。したがって子供にとって親といえぱ、必ず母親のことであり、母親と父親との影響力は比較にならなかった。よって女性が天皇となることには、まったく違和感がなかったと考えられる。
 子供が母方の家で育てられることが、飛鳥時代の蘇我氏や奈良・平安時代の藤原氏のように、天皇と姻戚関係を結び天皇を操ろうとする摂関政治の温床となったのであるが、皇位継承の問題はそうした女性観・家族観が大勢を支配していた古代でさえ、性別に関係なく「男の血筋から天皇を選ぶ」という男系継承の思想が根付いていたのである。
 例えば、父親を天皇にもつ内親王は、自分自身は皇位を継承できても、女性であるが故に結婚相手の男性が天皇の血筋でない限り、自分の息子を天皇にはできないのである。
 推古天皇(33)が敏達天皇(30)の皇后であり、持続天皇(41)が天武天皇(40)の皇后であったから皇位に就いたのではではない。それぞれ欽明天皇(29)・天智天皇(38)の内親王であったからである。
 今日に喩えれば、皇太子殿下とその子である愛子内親王には「皇位継承権」があるが、愛子内親王の配偶者が皇族の血をひいていない限り、その子が男性であろうが、女性であろうが皇位継承はできない。これが男系継承の意味であり、男の血筋の子孫が皇位を継承して連続性を維持してきたが故に「万世一系」というのである。
 つまり、男系継承とは「男性天皇が血統の出発点であること」を意味し、反対に女系継承とは「女性から始まる継承」をいう。愛子内親王が天皇となり、その配偶者が皇族でないかぎり、その子が天皇になると「女系継承」が始まるのである。
 「万世一系」というと本家の血筋が永遠に続くことと誤解する人がいるが、それでは「真の一系」にはならないのだ。時には分家からも継承者が現れ、男系で継承が維持されていくことが「万世一系」の本質的意味である。
 飛鳥より遥かに時代をさかのぼった第16代仁徳天皇の男系血筋は、約80年後の武烈天皇(25)で血統が途絶えたため、家系をさかのぼって分家の男系子孫を見つけだし、継体天皇(26)が誕生したという例もある。
 では次にこの男系継承を遺伝子学的に見てみよう。
 人間の男性の染色体はXYであるのに対して、女性のそれはXXであり、それぞれ46対ある。男女が結婚して男の子ができた場合、母の23対のX染色体と父の23対のY染色体をもらう。女の子の場合は、母の23対の×染色体と父の23対のX染色体をもらう。よって男系の子孫にのみにオリジナルのY染色体が引き継がれ、女系の子孫には引き継がれない。女系では「皇統」が護持されないのである。(参考図参照)
 つまり、皇位が男系継承で引き継がれていく限り、男性天皇には間違いなく初代神武天皇のY因子が継承されるのに対し、女性天皇ではY因子の保持は約束されないのである。
 男系継承を護持することは、神武天皇だけでなく、更に遡って二二ギノミコトのオリジナルのY因子を継承することにもなり、このY因子こそ「皇位継承」の必要要件であり「万世一系」の本当の意昧なのである。
 女性天皇による皇位継承は、皇統のY因子を継承するための、あくまで緊急避難的措置だったのである。
 古代には生物学や遺伝子学についての知識はなかったであろうが、我々の先祖は直感でこの法則を感得・熟知していたものと思われる。


二、染色体と遺伝子
 もう一度、染色体について整理すると、人間の染色体は「細胞核」に貯蔵されている。そして、人間の遺伝子はタンバク質でできた染色体の上に乗っている。染色体は乗り物であり、遺伝子は乗客に喩えられる。
 その乗客は時としてY染色体という乗り物からX染色体という乗り物に乗り換えることがある。これが 「遺伝子の組み換え」であり、男性のX染色体の上にも、Y染色体にあった遺伝子が減数分裂の際に乗り換えることが起こる。
 減数分裂とは、男性女性それぞれが、精子と卵子を形成するときの細胞分裂のあり方をいう。精子、卵子はそれぞれに46対の半分の23対になることによって、相手の配偶者からのもらった23対の染色体と合体して46対になるのである。
 この減数分裂の際に、「遺伝子の組み換え」が起こり、父親のY染色体にあった遺伝子が父親のX染色体に乗り移ることによって、女の子にもY染色体にあった遺伝子が継がれる場合がある。しかし、その確率はあまり高くない。従って、女性天皇はY染色体をもっていないが、遺伝子が組み換えられたことによってY染色体にあったY因子を継承することはあるが、その確率はそんなに高くない上に、その子孫となると、その確率は更に低くなる。
 Y因子の継承を考えると、Y染色体を保持した男系継承による直接継承でなければ、女系継承ではあまりに確率が低くなり、皇統のY因子が、確実に継承されたとは言えなくなるのである。


三、万世一系が続いた理由は何か  ―傍系宮家が繋いだ皇統―
 万世一系の皇統の危機は、先述のように女性天皇即位の助力もあっただ、何といっても傍系宮家の存在なくして語れない。
 継体天皇(26)は仁徳天皇(16)の弟から数えて5代後の子孫であり、光格天皇(119)は東山天皇(113)から数えて3代後の子孫である。
 15代を継承した徳川幕府でさえ、御三家が無ければ将軍家の継承は危うかった。
 Y染色体は傍系宮家に引き継がれ、本家の子孫が途絶えたとき、傍系宮家から皇位継承者が出現する「スペアシステム」こそが万世一系が続いた秘訣である。
 このことを考えると、今日の皇統断絶の危機は「女性天皇」の容認云々に心を奪われ、先人が直感的に感得していたY染色体の護持を忘れ、その保持者の存続に心を致さず、万が一の場合も想定して宮家を増やす等の、皇統護持に備える努力を怠っていたことにある。
 江戸時代の閑院宮家の創設を提唱した新井白石や、明治時代に傍系宮家の存続を主張した井上毅は、皇統存続の大功労者と言える。
 皇統は努力しないと続かない。現代の政治家は新井白石や井上毅に学ぶところ大であると言いたい。


四、Y染色体から見た皇統の連続性について女性天皇の前後はどうなっているのか
 先述の通り、日本史上女性天皇は、八代・六方が飛鳥時代から奈良時代にかけてであり、残り二方は江戸時代である。
 そこで、これらの女性天皇の前後を嗣いだ男性天皇との関係についてY染色体の視点からその関わりを見ていくことにする。
(1)推古天皇から始まる飛鳥維新
 日本史上最も有名な女性天皇は何といっても推古天皇であろう。我が国で最初の女帝であり、聖徳太子が摂政を務めた時の女帝として小学生にも広汎に知られている。彼女は第29代欽明天皇の皇女であり、第30代敏達天皇の皇后であったが、第33代天皇として即位した。しかし、この即位は、第31代用明天皇の子である聖徳太子を摂政に任命したことから明らかなように、自らが政治の実権を握り、国政を掌握するためではなかった。
 当時の国内情勢、特に蘇我氏と物部氏の豪族どうしの覇権争いを目の当たりにした推古天皇は、将来を展望し豪族を纏める天皇を輩出せねぱならないという強い使命感の下に「中継ぎ」として即位したのである。
 日本書紀にはその模様を次のように語っている。

泊瀬部天皇(崇峻天皇)の五年の十一月にあたりて、天皇、大臣馬子宿禰の為に殺せたまひぬ。嗣位、群臣、敏達天皇の皇后額田部皇女(後の推古天皇)に請して、践祇さしめまつらんとす。皇后辞譲びたまひぬ。百寮、上表りて勧進る。三たびに至りて乃ち従ひたまいぬ。

 推古天皇即位の前年、当時の最高権力者であった蘇我馬子は、推古天皇の弟である第32代崇峻天皇を弑逆(主君や父を殺害すること)した。
 これは崇峻天皇が蘇我一族の傀儡にならないという邪悪な理由によるものであった。推古天皇の生殺与奪は蘇我一族に撮られていたのである。だからこそ推古天皇は二度も皇位継承を断り、三度目になって緊急避難措置として皇位を継承し、後世に期待したのである。
 それでは誰を天皇にしようと考えていたのであろうか。それはいうまでもなく、「うまやどの皇子」すなわち、聖徳太子である。
 太子は、用明天皇の皇子(皇太子)で「日継ぎの皇子」として最有力候補であった。また、太子には母方の蘇我一族の血も混じっており、蘇我一族から排除されることはないと考えたのである。さればといって蘇我の傀儡では改革は進まない。推古天皇は最高権力者である蘇我の血筋から摂政を任命しつつも、一方で蘇我一族の横暴と宗数的対立に終止符を打ち、「天皇を中心とした統一国家」を樹立する願望を「うまやどの皇子―聖徳太子」に託したのであった。
 摂政に就任した聖徳太子はまず冠位十二階を定め、次に十七条憲法を発布する。民には「詔勅必勤」を義務づけ、豪族の血筋に関係なく能力に応じて人材登用をはかるという大改革は、蘇我一族にとっては誠に苦々しいものであった。
 そこで蘇我入鹿は聖徳太子が薨去(皇族や三位以上の死)すると、その子である山背大兄王を殺害に追い込み、太子の血筋を絶やしてしまう。
 聖徳太子の政治理念を受け継いだのは、中大兄皇子(後の天智天皇)であった。中臣鎌足(藤原鎌足)と相提携して蘇我入鹿を誅滅した皇子は「公地公民」の制度を確立した。
 これは今日流にいえば、天皇制の下で「農耕社会主義型社会」の樹立を展望したものであり、豪族が支配していた土地と民を解放し、租税や徴用を天皇のもとに一元化しようと考えたのである。
 このように、飛鳥史は天皇を中心とする統一国家づくりの過程で、時には豪族の反撃による揺り戻しを受けながら、大化の改新、壬申の乱を経て天皇を中心とする律令国家が完成する、謂わば「輝ける時代」として概観しなければならない。
 この一連の改革を「飛鳥維新」と呼ぶ。
 歴史学者の中には大化の改新、壬申の乱など、政争の断片だけを捉えて皇位継承をめぐる皇族や豪族の争いとする者もいるが、それは「木を見て森を見ない」狭隘(度量の狭いこと)な見方であり、悠久の大義の中で女性天皇は大きな役割を果していたのである。

(日) 第33代推古天皇(女帝)
 第33代推古天皇のあとに皇位を継いだのは、第34代舒明天皇であった。舒明天皇は、30代敏達天皇の直系の男孫にあたり、父親は押坂彦人大兄皇子である。
 従ってY染色体は第30代敏達天皇から、その子押坂彦人大兄皇子へ、そしてその子34代舒明天皇へと、推古天皇を中継ぎとして、間違いなくと継承されたのである。

(月) 第35・37代皇極・斉明天皇(女帝)
 皇極天皇と斉明天皇は同一人物であり、重祚したため二人の人物が存在したかのように錯覚してしまうが、34代舒明天皇の長男・茅淳王の皇女である。
 弟に、後の36代孝徳天皇がいるが、この時期は大化の改新のまっただ中であった。蘇我入鹿の誅滅は皇極天皇の目の前で行われたため、彼女はいったん退位し、弟の軽皇子(36代孝徳天皇)に皇位を継承した。大阪に都を移した孝徳天皇はその後退位したため、再び彼女が都を飛鳥にもどし、37代斉明天皇として即位したのである。
 その後皇位は、再び舒明天皇の血筋へと移る。第38代天智天皇、第40代天武天皇はともに、皇統のY因子を保持した舒明天皇の子である。
 従ってY染色体は、30代敏速天皇→押坂彦人大兄皇子→34代舒明天皇→38代天智天皇へと引き継がれている。

(火) 第41代持統天皇(女帝)・第43代元明天皇(女帝)・第44代元正天皇(女帝)
 壬申の乱の後、即位した天武天皇(40)とそれ以降の持統(41)文武(42)元明(43)元正天皇(44)の時代は、聖徳太子の政治理念を完成させた時代であった。
 持統天皇(41)は、天武天皇(40)の皇后でもあったが、天智天皇(38)の皇女(内親王)であったので、天武天皇(40)崩御の後、皇后でありながら皇位を継承することが出来た。
 女性の立場でなぜ、皇位を継承したのか。その理由は、実子である草壁皇子には異母兄弟に大津皇子がいたので、すぐに草壁皇子に継承すると、争いが起こると危惧したため「中継ぎ」として皇位についたのである。おくり名である「持統」が「血統を受け持つ」という意味からその本質を意味している。
 ところが、文武両道に優れ人望が厚かった大津皇子が謀反を起こしたとの噂が流れる。大津皇子は、心ない者の密告によって謀反の疑いがかり逮捕・処刑された。古代史上、「有間皇子事件」と並び称される悲劇であった。
 ところが、大津皇子の処刑後、肝心の草壁皇子が急病死してしまうのである。そこで、草壁皇子の長男・軽皇子が第42代文武天皇として即位できる歳になるまで持統天皇は退位しなかった。
 つまり持統天皇は、皇統のY因子を、第40代天武天皇の男系男孫である第42代文武天皇へと引き継ぐための中継ぎを果たさんとされたのである。
 Y染色体は天武天皇(40)→草壁皇子→文武天皇(42)へと継承されたのである。
 ところが文武天皇(42)は短命であったので、今度は文武天皇の母である元明天皇(43・女帝)が即位、その後は、姉である元正天皇(44・女帝)が即位する。
 元明・元正の両女帝を経た後、皇統のY因子は、文武天皇(42)の直系である聖武天皇(45)に継承されていくのである。
 これは文武天皇の長男である首皇子(後の45代聖武天皇)が成人し、即位するまでの「中継ぎ」を果たすためであった。
 このように、飛鳥時代から奈良時代にかけての女性天皇は、男系天皇に皇位を引き継ぐために即位したのである。

(水) 第46・48代 孝謙・称徳天皇(女帝)
 孝謙天皇と称徳天皇は同一人物であり、間に天武天皇(40)の孫である淳仁天皇(47)が即位し、退位後に重祚した。
 Y染色体は、天武天皇(40)→舎人皇子→淳仁天皇(47)へと引き継がれている。
 その後、血筋は再び天智天皇(38)の系列に移り、光仁天皇(49)が即位する。
 Y染色体は、天智天皇(38)→志貴皇子→光仁天皇(49)へと継承されている。
 以上が飛鳥時代から奈良時代にかけての流れである。
 Y染色体の継承者は、欽明天皇(29)以後は、兄弟の血筋に分散し複雑化する。また、女性天皇が問に挟まるため、ややこしくみえるが、皇統のY因子は、敏達天皇(30)→舒明天皇(34)から枝分かれした38代天智天皇系と40代天武天皇系の男系子孫によって引き継がれていることが要諦である。

(木) 第109代 明正天皇(女帝)
 明正天皇は、後水尾天皇(108)の皇女であり、後光明天皇(110)への中継ぎをはたしている。
 後水尾天皇は、徳川幕府の皇室封じ込め政策に強く反発した天皇であった。
 「禁中並びに公家諸法度」は「大嘗祭は行わせない」「行幸は許さない」など、幕府の監視のもとに皇室を縛る理不尽なものであったので、後水尾天皇は、幕府への抗議をこめて突然退位する。仕方なく皇位を継いだのが明正天皇(109)だったのである。
 Y染色体は後水尾天皇(108)→後光明天皇(110)へと継承されている。

(金) 第117代 後桜町天皇(女帝)
 後桜町天皇は、桜町天皇(115)の内親王であり、後桃園天皇(118)への中継ぎをはたしている。
 Y染色体は、桃園天皇(116)→後桃園天皇(118)ヘと継承されている。

(2)飛鳥から奈良時代にかけての女性天皇の偉大さ
 これまで、飛鳥時代の女性天皇が「中継ぎ」であることを強調してきた。しかし、これは実績がないということではない。むしろ逆で、中継ぎでありながら、女性天皇の御代に大きな改革と成果が残っている。
 推古天皇が聖徳太子を摂政に任命したことによって成し遂げられた諸改革だけではない。
 例えば、持統天皇は飛鳥から藤原京に遷都したが、最近の研究で藤原京は、それまでの予想とは裏腹に平城京を凌ぐ規模を房った大都市であることが明らかとなった。
 また夫である天武天皇の時代に始まった式年遷宮・大嘗祭といった皇室の伝統行事を確実なものにし、紀州などへの行幸も始め、「国見」の伝統を築いたのも持統天皇である。
 また、元明天皇のころには、古事記編纂事業が始まった。さらに、元正天皇の御代には平城京遷都が行われ、日本書紀が完成した。
 このように、我が国の歴史を貫く伝統・文化の基礎は女性天皇の時代に固められていったといっても過言ではない。


五、大嘗祭と皇位継承
(1)大嘗祭とは何か
 前節でY因子こそ「皇位継承」の必要条件であると述べたが、それでは、天皇の候補者が天皇となる十分条件とは何だろうか。
 それは皇室に代々伝わる皇位継承の秘儀、大嘗祭を行うことである。
 大嘗祭とは天皇となる人が、悠紀殿、主基殿という大嘗宮の中で、その年に収穫された新穀を天照大神ないし天神地祇にお供えになり、共に食される儀式と「マドコフスマ」という布団のような織物に包まれる儀式からなる。
 このことは、古事記の天孫降臨の予備知識なしには理解しにくい。
 天照大神は孫の二二ギノミコトを地上に遣わされる際、稲穂をお授けになる。「この稲穂を地上の国に植えて豊かな社会を築きなさい」というメッセージである。二二ギノミコトは、天照大神の言いつけどおり、稲穂を地上の国で栽培し、豊かな「瑞穂の国」をつくりあげた。そこで天照大神に感謝の意を表すべく、秋になると新穀を祭壇にお供えし、神とともに共食される儀式が「新嘗祭」である。

 大嘗祭とは、御代がわりの時に天皇が一生に一度だけ行う「新嘗祭」の特別版であり、即位後は、毎年「新嘗祭」が行われる。(大嘗祭は天武天皇が起源とされるが、新嘗祭は起源が解らないほど古い。おそらく二二ギノミコトに始まると考えられる)
 そして、天皇となる人は、新穀を食すことにより「二二ギノミコト」の使命(これを天津穂継の自覚と呼んでいる)を受け継ぐこととなり、「マドコフスマ」にくるまれることにより、自らの体内に「二二ギノミコト」の霊を入れること(これを天津日継の再生と呼ぶ)になる。
 大嘗祭をおこなうことによって天皇は「二二ギノミコト」として再誕・再生する。この「再誕・再生する」という所がとても大切なのである。

(2)式年遷宮が暗示するもの
 かつて三島由紀夫は『文化防衛論』のなかで伊勢神社の「式年遷宮」について言及し、オリジナルとコピーについての鋭い考察をしている。
 式年遷宮とは、20年ごとに内宮の神殿を建て替えることであると知5れている。三島は新しく建てられた神殿は、旧神殿をオリジナルとした場合、コピーされたものだが、新調された段階でオリジナルになると指摘している。
 新旧の神殿は位置こそ違え、寸分違わずまったく同じものであり、天武天皇の御代から「同じもの」が永遠の生命をもっているのである。
 この感覚は「石の文化」の欧米では理解できないだろう。歳月とともに朽ち果てる木に囲まれ、培われた「木の文化」の日本だからこそ、逆説的に「永遠の生命感覚」を表現しえたのだ。
 三島は、オリジナルがコピーされ、そのコピーがまたオリジナルとなる「再誕・再生を繰り返す」この原理こそ「万世一系の天皇の本質である」と喝破している。
 内宮の神殿は、天照大神が鎮座する「入れ物」・・・つまり肉体のようなものであるが、肉体は朽ち果てるので、20年に一度新調する。これに対し、天皇の肉体は「二二ギノミコト」の神霊を入れる「容器」のようなものである。
 天皇霊という表現はすでに敏達天皇の時代使われていたが、この天皇霊(二二ギノミコトの神霊)を受け入れる肉体の側に、それ相応の環境が整わないと受容できない。チューナーにあたるのがY因子であり、周波数をあわす作業が、大嘗祭ということになるのだ。
 従って皇位継承には、神武天皇の先祖である二二ギノミコトの神霊を入れる「受容体」こそ絶対不可欠な要件であり、男系継承でなければ、この要件は満たされないのである。
 皇位継承の儀式には、三種の神器を受け継ぐ「践祚」「即位礼」「大嘗祭」があるが、「践祚」「即位礼」は誰であっても形の上では遂行できる。これに対し、[大嘗祭」だけは誰であってもよいという訳にはいかない。男系子孫にしか、Y因子の「受容体」たる資格はないからである。
 従って、皇位継承には、男系子孫のY因子の継承と大嘗祭との必要十分条件がそろって、初めて完了するのである。

(3)日本人の死生観
 以上述べたことは、国民とは迂遠な皇室の宗教的儀式だと思う人もいるかも知れない。しかし、現代の日本人は、これとよく似た社会慣習・死生観のもとに暮らし、皇室の儀式を理解できる素地を十分もっている。
 それは、先祖供養の慣習と「輪廻転生」の死生観である。
 大阪大学の加地伸行名誉教授によれば、北東アジア民族の死生観には「魂魄」の思想(加地教授は魂魄こそが儒教思想の神髄であるという)が根底にある。
 人間は死ぬとその魂は天涯を浮遊し、魄(=骨)は地に留まる。天空をただよっていた魂は、時がくれば再び地上に舞い戻って新たな人間として誕生するのだが、地上に戻る目印がないと帰ってこれない。この地上の目印が魄(=骨)であり、墓であるというのである。
 こうした儒教思想は、仏教と融合し「輪廻転生」の死生観として今日も日本人に息づいている。
 我々日本人は、つい近年まで先祖に対し感謝の念を捧げるだけでなく、他界した後は自分自身も後世から祭られるという願望をもちつつ、何世代かを経て、その家の子孫として生まれ変わるという信念を持っていて、先祖供養という社会慣習が継承されてきた。
 宮中祭祀を否定するというならば、我々は先祖供養を否定せねばならない。
 なぜなら、歴代天皇は皇室の御祖先を祭るだけでなく、他界した国民の「億兆の御霊」を宮中三殿に祭っておられるからである。
 宮中三殿は中央に天照大御神を祭る「賢所」、右に歴代天皇と皇族を祭る「皇霊殿」、左に八百万の神々を祭る「神殿」からなるが、この「神殿」に日本国民として生を受け、他界したすべての国民の霊が八百万の神々とともに祭られている。国民が意識しようがしまいが、天皇は「祭り主」として国民の先祖を祭るお勤めに励んでおられるのである。
 これはまるで一家の家長が神棚や仏壇に先祖を祭り、墓参りをする「家庭祭祀」の光景と同じではないか。天皇は大家族国家日本の代表として国民の先祖をまつり、また皇祖皇宗の神霊を祭っておられるのである。
 また、大晦日には、生きている日本国民に対して、一年間の罪汚れを祓うために、「大祓い」を行われている。そして、元旦には「四方拝」を行って、国民の安寧と平和を祈られておられるのである。
 このように、国民の先祖供養と宮中祭祀は長い歴史のなかで、不可分一体のものとして醸成されてきた。天皇は決して支配者階級でもなければ、雲の上の特別な存在でもない。
 天皇と国民の紐帯(二つのものを結びつける大切なもの)は、ナショナル・アイデンティとしての伝統祭祀の中にある。


六、おわりに
 奈良時代の逆賊・弓削道鏡は、皇室の血筋ではないにもかかわらずー言い換えるとY因子を継承していないにも拘らず自らが天皇になろうとしたのである。
 今、小泉首相や有識者会議のメンバーは、この歴史に残る悪名高い第二の「弓削道鏡」になる恐れがある。
 「もともと天皇が男性でなければならない合理的根拠はない。女性天皇を是とする論議、検討が行われるのは自然であり賛成だ」「一人の人間が世襲的に国の象徴たるというのは人間の平等という精神から考えて問題があるが、それは将来国民の合意で決めるべきである」という意見には、象徴天皇制を肯定しても、世襲制を否定する視点が隠されている。これは最終的に天皇制廃止へ至る考えである。「男系継承」「万世一系」を破壊し、その後に「権威や伝統を喪失した皇室を存続させる意味があるのか」「権威なき意味のない天皇制は廃止しよう」という流れであろう。
 また、天皇ごー家を否定しなくても、男系継承を廃止するならば、何のために宮家を存続させるのか説明がつかない。男系継承を大前提として、万が一のために宮家が存在する意義があるのではないのか。男系継承を否定するなら宮家の存在意義はきわめて希薄となる。
 小泉総理や有識者会議の「国民世論を参考にし、男女を問わず最初の子供に皇位を継承する」などという案は、男女平等や同権等の綺麗事に惑わされて、二千数百年も続いてきた万世一系の皇室伝統を、この平成の御世で破壊することであると気づかねばならない。なるほど、皇位継承者が男系子孫でなくとも形式上は、天皇制が永続したかのように見せかけることは可能であろう。しかし、それはもはや「万世一系の天皇」ではない。何千年の皇統の歴史を切断し、皇室を破壊してできた日本版「王家」に他ならず、これは日本史上初の悪しき「革命」である。
 革命は共産主義の暴力革命だけではない。中国の「易姓革命」も立派な革命である。
 日本が日本である理由は「万世一系の天皇」が存続していることなのだ。
天皇のいない日本はもはや日本ではない。



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