平沼は語る平沼は語る

平沼邸炎上す

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 姉はその憲兵さんに肩車をしてもらい、私は護衛さんに手をひかれて、別々の方向に散った。私と護衛さんが、家の裏手にある、隣家の焼跡の前まで来ると、当時警視庁より、新撰組と称して屋敷警備のため常駐していた、警察たち(三十数人いたであろうか)がこれまた機関銃を据えつけられ、全員その焼跡の中に押し込められていた。

 機関銃の横には、小柄であるが、がっしりとして血色良い丈夫そうな士官(後で判ったのであるが、これが襲撃隊の指揮者、佐々木憲兵大尉)が、胸をそっくり返らせて立っており、そのそばに、母方の祖父である飯田のおじいさんが、裸足で、憤懣やる方ないという表情で、佐々木大尉をねめつけていたのが、印象的であった。祖父は年輩でもあるし、人品骨柄より。平沼家の内部に精通している人物であると目され、乱入者によって引き立てられてきたのであった。その場で氏素姓、騏一郎の所在等を詰問されたらしいが、もとより帝国海軍軍人であり、日本海海戦の筋金入りであるので、何を無体なとばかり、頑として口をきかない。

 相手は、じれにじれて、えいっ面倒な、と、抜身の刀で腹部めがけて突きかかったが、幸い内ポケットに煙草ケースを入れていたため、負傷をせずに済んだのであった。この煙草ケースには鮮やかに、剣先の走ったあとが残っており、終戦の日の記念として、保存していたが、飯田の祖父が亡くなった時、煙草好きの祖父のために、お棺に入れてやった。

 襲撃隊はここでもこのような飯田の祖父の気勢に押され、それ以上の乱暴はしなかった。佐々木大尉は、押し込められて、抵抗しない警官隊に向かって、興奮気味に、カン高い大声で「いいかっ、貴様たち、日本は負けたんだぞっ、平沼は日本を鬼畜米英に売った犬なんだぞっ、お前らは、その犬にも等しい平沼を守る、犬なんだぞっ、恥ずかしいと思わないのかっ」と大演説をぶっていた。

 そうこうしている中に、祖父の騏一郎と家内の安全を確かめた母が、私の所へ来て、私をおぶってくれた。そして裏門づたいに、広庭へ向かった。襲撃隊は騏一郎の行方が判らないと知るや、各室に一斉に石油をふり撒いて、これに、火を点けていたので、母が歩き出した頃は、家全体から黒煙が渦を巻いて吹き上がり、火が庇といわず、窓という窓から轟音を伴って吹き出していた。

 当時、広庭に面した長い廊下には、毎日の空襲に備えて、すぐ持ち出せるように、荷物が並べられてあって、母としては、なんとしてもその中から、過去帳その他の入った風呂敷包みだけでも持ち出そうと、私を背負って広庭へ急いだのである。

 広庭へ入る木戸の所には井戸があって、顔見知りの人々が一生懸命水を汲み上げて、消火に勤めていた。人間、気が動転すると、理屈に合わぬことをするもので、中の一人が、小さな罐詰の空罐で、燃えさかる家に向って、水をかけていたのには、子供心にも「無駄なことをしているなあ」と思ったことを憶えている。

 母は私を背負ったまま、熱い火のために多少、腰を引きながら過去帳の入っている風呂敷包みの所まで行って、それを取ろうと手を伸ばした。何しろ、夏で乾き切っている上、出火場所が、家全体であるから、その火勢、轟音、烈風たるやすさまじく、さしもの冷静沈着であった、オデコで、頭でっかちの変な子供、すなわち私も、本能的恐怖には抗し得ず、母の背中で、声の限りに、「熱いよう、熱いよう」とどなったものである。母の述懐によれば母はその時、私の泣きわめく声を聞いて、ふと、「過去帳を取り出すことよりも大切であるが、母子がそのために命を落としては、かえってご先祖様に申しわけがたたない」と思ったそうで、あと一間ほど前進すれば、取ることの出来た風呂敷包みを、諦めて引返した。私は母のさし伸ばした手の前方黒煙が渦巻いている廊下の台の上に、紫の風呂敷包みが、妙にひっそりとあったのを、今でもありありと、想い出す。母と私は取りあえず、その場から近所に住んでいる親類の家に落ち着くべく、別の裏口より出て家の塀づたいに歩き出した。

 私が母の背中から、燃えている家を振り返ってみると、家からはもう煙は余り出ておらず、よく晴れた夏の朝の澄み切った青空を背景に、あたかも焼火箸で建てたもののように、家の柱という柱が真赤になっており家全体の回りが、それよりも薄い、むしろ黄色に近い感じの炎で縁取られていた。子供心に、子供であったからこそであろう、「何てきれいなのだろう」と心底より思った。

 私の記憶に間違いがなければ、母は、その時家など振り返らなかったように思う。母としては、日本の将来、祖父を始め平沼家の前途のことなどで、頭が一杯であったのであろう。私をしっかりおぶって、うつ向き加減で、ずんずん歩いて行った。母の心境思うべしである。

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