平沼は語る平沼は語る

平沼邸炎上す

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 母が私たち子供の手を引いて次なる行動に移ろうとしたその瞬間、門前にザザーッという大型車両の急停車する音がして同時にわーッという喚声が静寂な朝の町に沸き起った。まったく息つく間のない襲来である。母は私達の手をギュッと握り廊下を進んで、反対方向からすっ飛んで来た、気丈で信頼のおける「植村なか」という婆やに大至急避難するように指示して、私たち子供を託し、奥の部屋にいる高齢の祖父に急を告げるべく駆け出して行った。

 私たち婆やに導かれて勝手口より脱出すべく急いだが、半分も行かぬうちになだれこんで来た抜刀隊の一員に、廊下の暗がりの中で押し止められてしまった。若い、白いシャツを着たその男は、抜身の刀を振り上げ、大声で「平沼はどこにいるのだ、教えないと為にならないぞっ!」と我々を威嚇した。私は余りにも小さかったせいか、事の一部始終が理解出来ず、別に怖いとも何とも思わなかった。

 ただ、この男はなんでこんなにおっかない顔してどなっているのだろうと思ったのを憶えている。恐らくその時の私は、ポカンと口をあけて、どんぐりまなこで男を見上げていたのではないかと思う。婆やは明治気質のかたまりの如き気丈な人で、私どもを背中の後にかばいながら、いきり立っている若者に多少上ずった声で「私は飯炊き女で、御前様のお部屋がどこにあるか知りません、ここを通して下さい、知りません、知りません」と叫んだ。

 男は、「同じ家に住んでいて、居場所が判らぬはずがないっ!言えっ」とさらに刀を振りかぶったが、婆やの「知らぬものは知らない」一点張りの返事に、ここでこんな頑固な老婆と、口をポカンとあけて不思議そうに見上げている幼い子供たちにいつまでもかかわり合っていたら、時間も無駄と、「もういいっ」と言いすてて奥の方へ、どかどかと行ってしまった。

 我々三人が勝手口をめざして、さらに進むと、別の廊下に通ずる曲り角より、今度はピストルを持った小柄の男が、前の男と同じように、私どもにピストルをつきつけて、「平沼は、平沼騏一郎はどこにいるっ!」と詰問、ここでも婆やの返事は同じであり、この男も婆やの気魄に圧倒されいずこともなく駆け去っていった。子供の連想というのは妙なもので、突きつけられた拳銃の鈍く黒光りする銃身を見て、甲虫の背とそっくりだなと思ったのを憶えている。

 ようやく勝手口へ辿りつき裏門へ通じる物干場や物置のある裏庭へ出ると、裏門を背に、戦闘帽の下から白い布をたらし、完全装備の兵隊二人が勝手口に狙いをつけ、腹這いになって機関銃を構えているのが見えた。この場でも婆やはその豪気振りを遺憾なく発揮、「あなたたちは一体、何ですか、婆や子供にそんな恐ろしいものを向けて、恥ずかしくないのですかっ、そんなあぶない物は早く横に向けて下さい、早くどけて下さい」

 今、考えるに、その時の婆やは幼い私たちを守る、悲壮な使命感に燃えていたのではないかと思う。理不尽な、一方的な暴力に対して、断じて、許せぬという憤りと、とにかく、幼い生命を守らなくてはならぬという強い決意が、彼女をあそこまでかりたてて、あれだけの強い人を動かしめる言動となったのだと思う。我々を手を拡げてかばいながら、相手をきっと睨み上げた婆やの高い鼻の、太い白髪を無造作に束ねたこわいまでのつきつめた表情の横顔を、私は今でもありありと眼前に想い出す。

 今は亡き婆やよ、有難う。

婆やのこの叱声に、機関銃の兵士は、母親にとがめられ、いやいや従う子供のような表情と動作で、ごそごそと機関銃を横向きにした。それを見届けてから婆やは我々を導いて、そこを通り抜け、ちょうど来合わせた憲兵さんに姉を託した。この憲兵さんには我々はとてもなついていたのである。そして私を警視庁から来ていた護衛さんに任せて婆やは完全にその責務を果たしたのであった。

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