終戦の前年、四十に手の届く父に、召集令状が来た。父は兵隊検査の前年、盲腸炎が手遅れで腹膜炎を併発し、死にかかったそうだ。そのため検査は第二乙ということで、召集が遅れたのであった。
行先は泣く子も黙る横須賀海兵団。父は頭をクリクリに丸め、出征兵士のたすきをかけて、平沼邸の門前で、騏一郎をはじめ、全員総出の中で、多少緊張気味に、気をつけの姿勢で、「海軍二等水兵、平沼恭四郎、只今から行って参ります。」と挨拶をしたことを、鮮明に憶えている。
海兵団では父は大変しごかれた様だ。部隊には大学出は数えるほどしか居らず新兵の中では唯独り、相当苦労をしたらしい。
戦後、落着いてから、酒を呑みながら、軍隊時代の話を良くしてくれたが、息子の様な上官にぶんなぐられた話、不器用で、ハンモックを吊るのも畳むのも下手糞で、要領のいい器用な仲間が手助けしてくれたこと。屈辱的な入浴の様子、飯の盛り方一つに殺気立つ日常、意外に落着いて、恬淡とし、糞度胸のあったやくざの親分だった男の話、炊事当番の折、入口で見知らぬ兵隊が、そっと手に入れてくれた砂糖のうまかったこと。等々、とても懐かしそうに話をしてくれたものだ。海兵団に入隊したものの、乗る船も既になく、本土決戦に備えての穴掘りが毎日の日課だったらしい。
ある日、面会日ということで、母と我々姉弟は車に乗って出掛けた。場所は子供のこととて憶えていないが、乗っていった車が、シンガポール陥落の折の戦利品である真紅のパッカード。枢密院議長であった騏一郎のところへ、差しまわされた車で、目立つことおびただしく、これで部隊に乗りつけたものだから、部隊中の注目を集め、「平沼は一体、何者だ」というとになったらしい。一度父が休暇で家に帰って来た時のことも良く憶えている。
まず、玄関に大盥を据え水を張り、着ている衣装を全部母の命令でそれに浸け虱退治からはじまった。沸かしてあった風呂に入り、「天国、天国」といい乍ら出て来た。海兵団の風呂は三列縦隊で両手を水面に、体をこすってないという証のために掲げ、顔面だけ出して行進、途中まで進むと、踏切よろしく遮断機の如き、棒が降ろされ、ストップ。こんな入浴の軍隊生活であったから、本当に家の風呂が天国に思えたのであろう。
それから心づくしの(物資の無い時であったが・・・)手料理、父は白米の盛られた茶碗を見るや、「あっ銀舎利(ぎんしゃり)だ」と言って、むさぼり食べて、「ああ銀舎利は旨い」とうなっていた。
父の軍隊生活は終戦の日から、定かではないが、一週間後位まで続いたのではなかろうか。従って父は終戦の日、家が軍に焼き討ちにあった時は居らず、我々が騏一郎の家の近所の親戚の掛下家に仮住まいをしていた時、突然トラックに乗って帰って来た。
この焼打ちは、終戦の御前会議の折、騏一郎が陛下の御前で本土決戦を主張する阿南陸相や梅津参謀総長等に、その備えの状況等につき、細かく質問、軍側の返答がしどろもどろとなり、ポツダム宣言を受諾すべきとしたのが、鈴木首相、東郷外相とそれに平沼騏一郎の三人、徹底抗戦を主張したのが、阿南、梅津両氏のほか豊田軍司令部長の三人、三対三となってしまい、異例のことであったが、鈴木貫太郎首相が陛下の御前に進み出て、「臣下では決しかねるので、ご聖断を」ということになって、ポツダム宣言を受諾する旨のご聖断が下り、終戦を迎えたわけであるが、軍の一部には憎むべきは君側の奸「鈴木と平沼」、殺ってしまえということで、八月十五日の早朝、鈴木邸と平沼邸は佐々木工兵大尉の率いる暴徒によって襲撃された。
五歳と七歳の私と姉は共に居合わせ、共に鮮明な記憶をもっているが騏一郎はこれまた奇跡的に死なずに済んだのであった。暴徒が襲ってきたのは朝の五時半、直前に鈴木貫太郎首相のところから急を告げる電話があったが、母が電話を置くか置かぬ内に、門前より雪崩をうって、拳銃を振りかざした者、抜刀をした者共が、押し込んで来た。我々もその渦に巻き込まれたのであったが、彼らの目指すは騏一郎。それこそ血眼になって捜しまわったのであるが、危機一髪、警視庁より派遣されていた幡野という護衛が、窮余の一策、渡り廊下で継っていた隣接の無窮会という騏一郎が内外より集めた国学の書と漢籍の図書館の中に騏一郎を導き、二階の広間の神棚の前の大衝立の蔭に騏一郎をかくまい、自身は階段の上に腰を据え、拳銃を構え、全弾を打ち尽くす覚悟で暴徒を待ったのであった。
しかし暴徒も、混乱していたのだろう。渡り廊下で継っているにも拘らず、無窮会には一切、手をつけず、屋敷全体に火をかけ、引揚げたのであった。
無窮会がなかったら、当然、平沼騏一郎は、暗殺されていたはずで、まさに、紙一重のところであった。
復員した父は、必然的に一家の主にならざるを得ず、此の時から、ある意味で父の苦労がはじまるのである。 |
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