平沼は語る平沼は語る

父のこと

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 父はやがて農林中金を退職し、三井生命へ移る。ある時、私が理由を聞いたところ、農林中金は官学閥が強く、将来、見込みないと思って、移ったそうだ。

 昭和十二年に長女の宣(よし)子が生まれ、二年後に私が生まれた。中川の家は代々木大山町に立派な新居を建ててくれていたが、騏一郎の家の世話もあり、西大久保の騏一郎の屋敷の一角に家を構え、我々一家は其処に住んでいた。戦争までのこの期間、両親にとって一番幸せの時代ではなかったかと思う。

 騏一郎の家は兎に角大世帯で、騏一郎を中心に、我々一家、それに母の両親の飯田夫妻、母の姪と甥が同居しており、執事に秘書、女中も常時七〜八人、運転手一家、護衛の人達とまことににぎやかであった。

 この大世帯を切り盛りしていたのが母であった。父は此処から毎日、会社に通っていたのである。父はその人柄で、騏一郎に大変信頼され、「恭四郎さん、恭四郎さん」と大事にされていたそうだ。

 姉と私の共通の想い出は父はとに角、いい親父だったということで毎日のようにお土産を二人に買って来てくれた。従って、我々は父の帰りが待ち遠しく、玄関で待っていると、ニコニコしながら、お土産を振りかざして帰って来たものだ。

 ある時は、竹で出来た蛇であったり、絵本であったり、紙芝居であったり、千変万化であった。紙芝居といえば、夕食後、父のしてくれる紙芝居が、何んとも楽しく、姉と二人で良くせがんだものだ。姉はおしゃまであったので、何巻もの紙芝居は全部空で憶え、口調まで父そっくりに演じてみせたものだ。

 この時分、平沼家は平穏ではあったが、いくつかの波風はあった。騏一郎の実兄の平沼淑郎が亡くなったり、その妻の重(しげ)が死んだり、昭和十四年には騏一郎が内閣総理大臣を拝命、父の毎日も大変、あわただしかったに違いない。

 中でも圧巻は、昭和十六年の開戦の年の八月、騏一郎が西大久保の自宅で、右翼に暗殺されかかった事件であろう。戦雲は急をつげ、歴史の流れは、奔流の如く開戦へと突き進み、将に一触即発の時、必死にその流れをくい止め様としたのが騏一郎であった。

 長年親交の深かったグルー米国防長官代理に一生懸命働きかけて、何んとか戦争になるのをくい止めようとしていたのであるが、これが軍に洩れ、「鬼畜米英に内通する国賊」とまでいわれ、その命をねらわれ、軍の意を体した右翼の神官が、騏一郎の郷里美作出身の代議士の紹介状を持って現れ、面談中の騏一郎めがけて、至近から、首から上をねらい、拳銃弾を浴びせかけ、五弾が顔面から首にかけて命中、騏一郎は瀕死の重傷を負った。七十歳を過ぎていたにも拘わらず、奇跡的に一命を取留めたのであるが、このことは平沼家にとっても一大事件であって、父にとっても大変なことであったと想像出来る。

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